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弥陀と釈迦 [『教行信証』精読2(その155)]

(3)弥陀と釈迦

 弥陀が仏なら、釈迦も仏ではないかと言われるかもしれません。もちろん釈迦は仏でしょうが、でも同時にこの地上を生きたひとりの人間です。釈迦の最後について伝えられる話は人間・釈迦のありのままの姿を語ってくれて印象に残ります。釈迦はもう終わりの時が近いことを知り、故郷へ旅立ちますが、その途中でのことです。鍛冶工のチュンダは釈迦の一行がきたことを知り、彼らを食事に招き、きのこ料理でもてなすのですが、釈迦はその毒にあたってしまうのです。『大涅槃経』(小乗の『涅槃経』と大乗の『涅槃経』があり、これは前者)にその時の様子がこう記されています。
 「さて世尊が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、激しい病が起こり、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた(おそらく血便が出たのでしょう)。世尊はじつに正しく念い、よく気をつけて、悩まされることなく、その苦痛を忍んでいた。さて世尊は若き人アーナンダに告げられた、『さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーに行こう』と。『かしこまりました』と、若き人アーナンダは答えた」。そして釈迦は苦しい旅をつづけクシナーラーに到着します。そのとき釈迦はアーナンダにこう言うのです、「さあ、アーナンダよ、わたしのために、二本並んだサーラ樹の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。わたしは疲れた。横になりたい」と。これが彼の最後でした。
 引用が長くなりましたが、こんなふうに釈迦もわれらと同じ「わたしのいのち」であるからこそ、彼はわれらに人間のことばで本願を語ることができ、われらはそれを聞くことができるのです。しかし同時に彼も「わたしのいのち」であるからこそ、本願はむこうからやってくるしかないのです。釈迦が仏とされるのは、むこうからやってきた本願を傍受し、それを人間のことばで語ってくれたからです。釈迦でなくても、むこうからやってくる本願を伝えてくれる人はみな仏といっていいわけで、だからこそ十方世界の無量の諸仏といわれるのです。
 「むこうからやってくる」と言う代わりに「無量のいのちである阿弥陀仏からやってくる」と言うのであって、釈迦をはじめとする諸仏にとって本願は弥陀からやってくるしかないのです。

タグ:親鸞を読む
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