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浄土という世界意識 [「『正信偈』ふたたび」その72]

(3)浄土という世界意識

さて第6句の「報土の因果誓願に顕す」から親鸞が曇鸞から汲みとった教えに入ります。報土とは本願が成就してできた真の浄土のことで、報土の因果とは報土へ往生する因果ということを意味し、その因も果もみな本願力によるといっているのです。短いことばでさりげなく言われているだけですが、ここに他力信心のすべてがつまっているとも言える珠玉のようなことばです。これを理解するためには、まずもってそもそも曇鸞=親鸞にとって浄土に往生するとはどういうことであるかを確認しておかなければなりません。それがはっきりしてはじめて、浄土に往生する因も果もみな本願力によることが明らかになります。

龍樹の流れを汲む曇鸞にとって実体としての浄土というものがどこかに(西方十万億土に)あるのではないことは確かでしょう。こちらに娑婆とよばれる世界があり、あちらに浄土とよばれる世界があって、こちらからあちらへ移動することが往生であるなどということを龍樹の空を学んだ曇鸞が考えるはずがありません。としますと浄土とはいったい何か。それは本願力(「ほとけのいのち」)のふところのなかで生かされていることに思い至ることそのことです。本願力のはたらきがわが身の上に感じられるとき、そこに浄土が現われているのです。では娑婆(あるいは穢土)とは何か。それは「わたしのいのち」が相剋しあって生きていることそのことであり、その相剋が否応なく感じられるとき、そこに娑婆があります。

浄土も穢土も世界そのものを指しているのではなく、それは世界意識であるということです。そして浄土という世界意識があるときは、その裏側にかならず娑婆という世界意識があり、また娑婆という世界意識がありましたら、かならずその裏側に浄土という世界意識があります。浄土という世界意識と娑婆という世界意識は一つのコインの表と裏の関係にあるということです。ですから浄土へ往生するとは、浄土という世界意識をもつようになること、すなわち「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされていると感じることであり、そしてそれは同時に娑婆という世界意識をもつようになること、すなわち「わたしのいのち」を他と相剋しあって生きていると感じることです。

これがこれまで繰り返し言ってきましたこと、つまり「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで、すなわち相剋しあって生きているままで、「ほとけのいのち」のふところのなかで生かされているということです。


タグ:親鸞を読む
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