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本願のリレー [『正信偈』を読む(その64)]

(2)本願のリレー

 さて親鸞はここで、七高僧たちをひとまとめにするかたちで、「大聖(釈迦)興世の正意を顕し、如来(弥陀)の本誓、機に応ぜることを明かす」と述べています。すでに「如来、世に興出したもう所以は、ただ、弥陀本願海を説かんとなり」とありました。釈迦如来が世にあらわれたのは、弥陀如来の本願を説くためである、というのでした。そしてここで、七高僧が世にあらわれたのは、釈迦如来がわれらのために弥陀の本願を明らかにしてくださったことをわれらに説くためだというのです。
 弥陀から釈迦へ、釈迦から七高僧へと本願がリレーされているということです。
 『歎異抄』第2章にこの本願のリレーが出てきます。「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふか。詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と。弥陀から釈尊へ、釈尊から善導へ、善導から法然へ、そして法然から親鸞へと続く本願のリレー。
 この本願のリレーについてはこれまでも取り上げましたが、他力の根幹に関わることですので、別の角度から改めて考えてみたいと思います。
 宗教の本質は「救われる」ことにあるということです。「救う」ではなく「救われる」。ぼくらは河で溺れかけている人を救うことはできても、宗教的な意味で誰かを救うことはできません。わたしは宗教的な救いを与えることができると語る人がいましたら、もうそれだけでその人は詐欺師と考えて間違いありません。


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