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孤独という心の病 [「親鸞とともに」その46]

(7)孤独という心の病

さてではどのようにして孤独という病はほんとうの意味で癒されることになるのでしょう。これまで本願に遇うことにより孤独から解放されることをほのめかしてきましたが、それはどういうことかを語らなければなりません。

孤独というのは心の病であるということから再スタートしましょう。「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に根を下ろしているからこそ生きることができるのに、あたかも「わたしのいのち」だけで生きているように思い込むという病です。このようにして身は土から切り離され、自由を手に入れるのですが、この自由には孤独という代償がつきまといます。「わたしのいのち」の自由がうまく回っているときは、わが世の春を謳歌することができますが、何か蹉跌を味わうことになりますと、自分を取り囲んでいる世界に対して不満をぶつけることになります。うまくいかないのは周りの世界の所為だとするのです。かくして自分(身)と世界(土)は対立関係に陥り、わが身は「独り生れ独り死し、独り去り独り来る」という悲哀を味わうことになるのです。

これが孤独という病だとしますと、「わたしのいのち」だけで生きているという思い込み(囚われ)にその根っ子があることになります。ですから、この囚われから抜け出すことができれば、もう孤独の病から解放されるのですが、さてしかしこの囚われから自分で抜け出すことはできそうにありません。そもそも心が何かに囚われているということは、そのことに気づいていないということですから(囚われに気づいている人は、もはや囚われていません)、自分で囚われから抜け出ようとすることはありません。それは深い夢のなかにある人は、自分が夢のなかにあるとはつゆ思っていませんから、その夢から自分で抜け出ようとすることがないのと同じことです。「これは夢だから、はやくここから抜け出よう」と思う人は、もう半ば目覚めている人です。

孤独という病の根源である「わたしのいのち」への囚われは、自分の力でそこから抜け出ることができないとしますと、もはや如何ともしがたいということでしょうか。


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