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かならず転じて軽微なり [『浄土和讃』を読む(その174)]

(7)かならず転じて軽微なり

 3首目です。

 「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障(じゅうしょう)みなながら かならず転じて軽微(きょうみ)なり」(第98首)。
 「何にもまして功徳ある、南無阿弥陀仏となえれば、三世のさわりことごとく、きっと転じてかるくなる」。

 「三世の重障」とは過去・現在・未来の煩悩ということで、南無阿弥陀仏はわれらの煩悩の苦しみを転じて軽くしてくれるというのです。
 この「転じて軽微」という言い回しに妙味があります。南無阿弥陀仏は煩悩の苦しみを消去してくれるのではありません、煩悩の苦しみを軽くしてくれるのです。われら凡夫について親鸞はこう述べています、「凡夫といふは、無明煩悩、われらがみにみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして、臨終にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と。まったくもってグーの音もでません。
 南無阿弥陀仏によって、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おほくひまなくして」ではなくなるわけではないものの軽微になるというのですが、それはどうしてでしょう。
 先にこう言いました、南無阿弥陀仏とは「必ず救う」の声で、それが聞こえること自体がもう救いであると。そして「ああ、救われた」という思いが、すべての苦しみの根を断ち切ってくれるのだと。今の場合も、南無阿弥陀仏は煩悩がもたらす苦しみをきれいに消し去ってしまうのではありませんが、その根を断ち切ってくれるのです。生け花は根が切られていてもきれいに咲き続けますが、養分が供給されることはありませんから、実をつけることはありません。同じように、苦しみはその根が断ち切られますと、もう養分の供給がなくなりますから、自己増殖することはありません。
 そして不思議なことに、もうこれ以上ひどくなることはない苦しみは、苦しみであることをやめるのです。

タグ:親鸞を読む
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