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山家の伝教大師は [親鸞の和讃に親しむ(その34)]

(4)山家の伝教大師は

山家(さんげ、比叡の山)の伝教大師は 国土人民をはれみて 七難消滅の誦文(じゅもん)には 南無阿弥陀仏をとなふべし(第97首)

天台宗の最澄は、嵯峨天皇にこたえては、世の七難をなくすには、南無阿弥陀仏にしくはなし

この和讃の背景については存覚が『持名鈔』でこう説明しています、「嵯峨の天皇の御時、天下に日てり、雨くだり、病おこり、戦いできて国土おだやかならざりしに、いづれの行のちからにてかこの難はとどまるべきと、伝教大師に勅問ありしかば、『七難消滅の法には南無阿弥陀仏にしかず』とぞ申されける」と。七難については『法華経』の「観音菩薩普門品」(いわゆる『観音経』)に、火難、水難、風難、刀杖難、悪鬼難、枷鎖難(かさなん、かせや鎖につながれる)、怨賊難の七つが出され、「南無観世音菩薩」と称えれば、これらの難から免れることができると説かれています。これらをもとにこの和讃を読みますと、「南無阿弥陀仏」はまさに七難消滅という現世利益のための誦文(呪文)のように思えて、またもや大いに戸惑わされます。

「七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏をとなふべし」という文言は、そのまま読みますと、七難消滅というご利益を得ようと思えば、南無阿弥陀仏を称えればいい、ということですが、そしておそらく伝教大師はその意味で言われたのでしょうが、親鸞はその深層にあるものを読み込んでいるに違いありません。そもそも親鸞にとって南無阿弥陀仏はこちらから称えるものではありません、むこうから聞こえてくるものです、「お前を待っているよ、そのまま帰っておいで」と。そしてそれにこだまするように「ありがとうございます、帰らせていただきます」と応答するものです。まず呼びかけがあり、それに応える、この呼応が念仏です。親鸞はそれを「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せず」と言います(「信巻」)。

そこからしますと、「七難消滅の誦文」はわれらが願って称えるものではなく、それを阿弥陀如来が願って称えてくださっているのです。そして「何もおそれることはない、そのまま帰ってくればいい」と呼びかけてくださっているのです。われらはそれに「はい、ただいま帰らせていただきます」と応えるだけです。


タグ:親鸞を読む
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