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はじめての『教行信証』(その182) ブログトップ

2014年1月26日(日) [はじめての『教行信証』(その182)]

 「非僧非俗」という生き方はこれまでの仏教のあり方を根底から覆す壮大な企てと言わなければなりません。
 それにつけても親鸞が「禿」を名のったことが気になります。「禿(かむろ)」とは元来、出家のように「剃髪」するでもなく、在家のように「結髪」するのでもなく、伸びた髪を肩のところで切るだけの「おかっぱ頭」のことです。
 親鸞がこの名乗りを文字通りに実践していたとしますと、ぼくらの持っているイメージとは全く異なる親鸞像が浮かんできます。ぼくらのイメージは残された絵像から作られていますが、それらはすべて剃髪した僧の姿です。
 この辺りの事実は残念ながら歴史の霞みの中にぼやけてしまっていますが、もし親鸞が、そしてその弟子たちもみな禿頭をして、同朋たちの集まる道場で念仏生活をしていた状景を想像してみるのもおもしろいと思うのですが、いかがでしょうか。
 長い間お付き合いをいただき有難うございました。この辺で『はじめての「教行信証」』を閉じたいと思います。

 明日からは『生きる意味』。
 何だか気恥ずかしいテーマですが、これは問題とするべきテーマであるかどうかも含めて一度はきちんと考えておきたいと思います。装いを新たにブログ「コギト」を続けていきたいと思いますので宜しくお願い致します。

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