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気づくと知る [『歎異抄』を聞く(その118)]

(6)気づくと知る

 弥陀の本願という真理は、それに気づいていない人にはどこにも存在しません。
 ぼくがそのように言いますと、「存在しないのではなく、存在しないにひとしいだけではないでしょうか」と反論された方がいました。ちょうど、万有引力の法則を知らない人にも万有引力そのものは存在していますが、その人にとって存在しないにひとしいように。でも弥陀の本願は「真理そのものとしてのことば」ですが、万有引力の法則は「真理を伝えることば」であり、その点においてまったく異なるのです。「真理そのものとしてのことば」は、それに気づいていない人にはどこにも存在しませんが、「真理を伝えることば」は、それを知らない人にも、真理そのものはちゃんと存在します。ただその人には存在しないにひとしいのですが。
 いま、弥陀の本願については「気づく」と言い、万有引力の法則については「知る」と言いましたが、ここであらためて「気づく」と「知る」の違いを考えておきましょう。普通は「気づく」と「知る」はそんなにきちんと区別することなくつかわれています。「あなたでしたか、気づきませんでした」と言うところを、「あなたでしたか、知りませんでした」と言っても問題ありません。でもきちんと区別しなければいけない場合があります。弥陀の本願は、それに「気づく」のであり、それを「知る」のではありません。万有引力の法則は、それを「知る」のであり、それに「気づく」のではありません。
 どう違うのでしょう。
 まず「知る」ですが、これは「向こうにあるものが何であるかを把握する」ことです。狩猟をする原始人になってみましょう。向こうに何か動くものがある、あれは何だろう、あれは食べられるものか、捕えることができるだろうか、といったことを知らなければなりません。まず何であるかを知ろうという思いが動き、そして知るために相手ににじり寄ります。知ろうとする相手は「向こうに」あるということ、そして相手を「これから」知ろうとしていること、これが「知る」ということです。

タグ:親鸞を読む
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