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無に帰す [「親鸞とともに」その108]

(2)無に帰す

そこで死ぬとは何かを考えたいのですが、そのさいやはり問題となるのは「わたし」です。生きることは「わたしのいのち」を生きることであるように、死ぬことも「わたしのいのち」が死ぬことです。そしてこれまで見てきましたように、「わたしのいのち」を生きることについて、「わたしのいのち」の根拠は「わたしのいのち」そのものであるという立場(「わたしのいのち」を「わたしの力」で生きるという立場)と、「わたしのいのち」の根拠は「ほとけのいのち」(あらゆるいのちの無尽のつながり)であるとする立場(「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされているという立場)がありますが、それに応じて「わたしのいのち」が死ぬことについても、二つの立場があります。

「わたしのいのち」の根拠は「わたしのいのち」そのものにあるとしますと、「わたしのいのち」が死ぬことは、その根拠もろとも消えるということですから、一切が無に帰してしまうことに他なりません。『無量寿経』に印象的な一節があります、「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る(独生独死独去独来)」と。気がついたら独りこの世界のなかにいて、何十年かそのなかで喜怒哀楽の生活を送り、また独りこの世界を去っていきます。そして自分が死んでも、世界は何ごともなかったかのように、これまで通りの歩みをつづけていくことでしょう。自分一人が世界から忽然と消えていく、死の何とも言えぬ怖さはここにあるのではないでしょうか。

それに対して「わたしのいのち」の根拠は「ほとけのいのち」であり、「わたしのいのち」として「ほとけのいのち」のなかで生かされているとしますと、「わたしのいのち」が死ぬということは、どういうことになるでしょう。

ここであらためて「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係を思い浮かべてみますと、「わたしのいのち」とは、生きとし生けるものたちが縦横無尽につながりあっているなかの一つのいのちであり、「ほとけのいのち」とは、その無尽のつながりそのものです。イメージとしては、「ほとけのいのち」は大いなる網(いのちの網)のようなもので、そのなかで無数の糸が無尽につながりあっており、その糸と糸の結び目が個々の「わたしのいのち」です。


タグ:親鸞を読む
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