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南無阿弥陀仏わが内にありて生くるなり [『浄土和讃』を読む(その184)]

(17)南無阿弥陀仏わが内にありて生くるなり

 親鸞は『金光明経』にもとづき、善鬼神たちは念仏のひとを護ってくれ、悪鬼神どもは信心のひとを恐れて近づかないと言うのですが、「そりゃあ、阿弥陀仏から賜った念仏だから当然」と簡単に納得してしまうのではなく、なおも「どうして?」と問うことが大切です。順境にあるときはいいでしょう、世界は優しく微笑みかけてくれる。でも一旦逆境に陥ったとき、天神地祇はみな自分を護ってくれていると思えるかどうか。そのとき口からあの呪詛のことば漏れないでしょうか、「どうしてオレばっかりが」と。天地にみてる悪鬼神が自分ばかりに意地悪をしていると思えないでしょうか。
 『歎異抄』7章にも「念仏者は無碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」とありますが、どうしてそんなことが言えるのでしょう。
 突然ですが、ここでパウロのことばを参照したいと思います。おそらく『新約聖書』の中でもっとも深いことばのひとつでしょう。「われキリストとともに十字架につけられたり。もはやわれ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり」(『ガラテヤ書』第2章)。念仏のひとにも同じことが言えるのではないかと思うのです、「もはやわれ生くるにあらず、南無阿弥陀仏わが内にありて生くるなり」と。阿弥陀仏が南無阿弥陀仏(「そのままのお前を必ず救う」)という声となってわが内に生きています。そして南無阿弥陀仏の中で「どうしてオレばっかりが」の「オレ」が溶かされてしまうのではないでしょうか。
 再びくすりのたとえを持ち出しますと、源信は『往生要集』でこう言っています、「たとへばひとありて不可壊(ふかえ)のくすりをうれば、一切の怨敵(おんてき)そのたよりをえざるがごとし。…菩提心不可壊の法薬をうれば、一切の煩悩諸魔怨敵壊することあたはざるところなり」と。南無阿弥陀仏は不可壊のくすりなのです。

タグ:親鸞を読む
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