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名号を聞きて [「親鸞とともに」その35]

(3)名号を聞きて

名号はわれらがそれを称えるより前に、むこうからよびごえとして聞こえるものであることを浄土の代表的な経典である『無量寿経』で見ておきましょう。『無量寿経』は弥陀の本願を説く経典と言えますが、その四十八願のなかに「名号」ということば(及びそれに類する「名」あるいは「名字」)は十三もの願に出てきます。そして一つの願を除いたあとのすべては「名号を聞きて」という形で出てきます(例外は第十七願で、そこでは「名号を称える」とありますが、そのことについては後で考えたいと思います)。第二十願を見ますと、こうあります、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係(か)け、もろもろの徳本を植えて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ」と。そのあと、第三十四から三十七の願、少し飛んで第四十一から四十五の願、そして第四十七と四十八の願に「わが名字を聞きて云々」と出てきます。

このことは名号は聞こえるものであることを何よりもはっきりと物語っていると言えますが、四十八願以外にも「名号を聞きて」という表現が出てくる箇所が三つあり、親鸞はそれらの文に『無量寿経』の神髄があると捉えていますので読んでおきましょう。まずは第十八願の成就文で、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまヘリ。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」とあります。次は東方偈とよばれる箇所に「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲(おも)へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」とあります。最後は経典の末尾、流通分とよばれるところに、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす」とあります。

この三つの文はみな同じ趣旨で、「南無阿弥陀仏」というよびごえを聞くことができた人は、そのとき往生することができ、かならず仏となる身である不退転に住することが述べられています。四十八願において「わが名号を聞く」ことがどれほど素晴らしい功徳をもたらすかがこれでもかと語られましたが、その本願が成就して「その名号を聞く」ことができた人に実際どんな功徳があるかが説かれているのです(『無量寿経』はその上巻で四十八願が説かれ、そして下巻でそれが成就したことが説かれます)。


タグ:親鸞を読む
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