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欣へばすなはち浄土につねに居せり [「信巻を読む(2)」その45]

(10)欣へばすはなち浄土につねに居せり

このように凡夫は娑婆を厭うことなく、また浄土を願うことがないと述べたあと、注目すべきことばがきます、「厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすはなち浄土につねに居せり」と。娑婆を厭いさえすれば「すなはち」娑婆を超えることができ、浄土を願いさえすれば「すなはち」浄土に居ることができると言うのです。親鸞はこのことばに注目し、性信房宛ての手紙のなかでこう言っています、「光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、〈信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す〉と釈したまへり。〈居す〉といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり」と。善導が「すなはち浄土につねに居せり」と述べていることを親鸞が咀嚼して、「そのこころすでにつねに浄土に居す」と言いかえているのです。ここには往生の意味についての大事なメッセージが隠されていると言わなければなりません。

信心を得て娑婆を厭い浄土を願う「そのとき(すなはち)」、娑婆を離れ浄土に居るというのは第十八願成就文の「即得往生」のことを言っていますが、それは何を意味しているかを親鸞が噛み砕き、まず「そのこころ」ということばを加えます。「浄土に居す」とはこの娑婆ではないどこか別の世界に往くことではなく、娑婆世界のただなかで「そのこころ」が浄土に居るということだと述べているのです。その身は娑婆のただなかにありながら、そのこころは浄土にあるということです。そしてさらに「すでに」ということばが加えられます。これは、信心を得たそのときはじめて浄土に居るようになるということではなく、信心のときにはもう「すでに」浄土に居るということです。すなわち、信心を得るとは、もうずっと前から浄土に居ることに「気づく」ことだというのです。信心の前から「すでに」浄土に居るのに、これまでまったく気づかなかった、それにいま気づいたということです。

これが生死を「横さまに超える」ということです。生死のただなかにありながら生死を超えるということ、これが「横超断四流」です。


タグ:親鸞を読む
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