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本文15 [はじめての『尊号真像銘文』(その76)]

(7)本文15

 善導和尚云、「言南無者、即是帰命、亦是発願回向之義、言阿弥陀仏者、即是其行、以斯義故、必得往生」

 善導和尚が言われるに、「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。

 「言南無者(ごんなもしゃ)」といふは、すなわち帰命と申すことばなり。帰命は、すなわち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて、召しにかなふと申すことばなり。このゆゑに「即是帰命(そくぜきみょう)」とのたまへり。「亦是発願回向之義(やくぜほつがんえこうしぎ)」といふは、二尊の召しにしたがうて、安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者(ごんあみだぶつしゃ)」と申すは、「即是其行(そくぜごぎょう)」となり。即是其行は、これすなわち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり。安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。「以斯義故(いしぎこ)」といふは、正定の因なるこの義をもつてのゆゑにといへる御こころなり。「必」はかならずといふ。「得」はえしむといふ。「往生」といふは、浄土に生るといふなり。かならずといふは、自然に往生をえしむとなり。自然といふは、はじめてはからはざるこころなり。

 「南無といふは」といいますのは、すなわち帰命ということばです。帰命とは、釈迦・弥陀の二尊の勅命のままに、そのお召しに従うということです。ですから、「すなはちこれ帰命なり」と言われたのです。「またこれ発願回向の義なり」と言いますのは、二尊のお召しに従って安楽浄土に往生したいと思うこころのことだと言われているのです。「阿弥陀仏といふは」、「すなはちこれその行なり」と言われます。「すなはちこれその行なり」とは、これは法蔵菩薩の選択本願に他ならないということです。それこそが、浄土へ往生できる正しく定められた業因だと言われているのです。「この義をもつてのゆゑに」と言いますのは、阿弥陀仏の名を称えることが往生の正しく定められた業因であるからということです。「必」はかならずということ、「得」はえさせるということです。「往生」とは浄土に生まれるということ。かならずというのは、自然に往生させていただくということです。自然と言いますのは、こちらから何もはからうことがないということです。

タグ:親鸞を読む
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