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煩悩と苦はひとつ [「親鸞とともに」その90]

(4)煩悩と苦はひとつ

もう一度、先の煩悩と苦の関係に戻りますが、これを「原因・結果」の関係ととらえることから、結果としての苦をなくすためには原因である煩悩を断てばいい、という実践的指針が出てきます。実際、第三の「滅諦」はそういうことを言っていると了解し、仏教は煩悩を断つことにより苦から解脱することを教える宗教であるとする立場があります。八正道を歩むことで煩悩を断滅することができた暁に仏のさとりに至ることができるのだと。ぼくは若い頃から仏教に関心を寄せながら、このように説かれることに違和感を懐きつづけてきました。

煩悩を断滅するとはどういうことでしょう、そんなことがどうしてできるのでしょう。そもそも釈迦は六年間の壮絶な苦行を中断し、菩提樹の下で瞑想に入ったとき、目覚めに至りました。その苦行といいますのは、まさにわれらを日々悩ます煩悩と闘い、それを断滅するためのものですが、釈迦は煩悩と闘い、それを断滅しようとすることの不可に気づいたのではないでしょうか。としますと、集諦は「苦の原因が煩悩である」ということではなく、「煩悩のあるところ苦があり、苦のあるところ煩悩がある」ということ、「煩悩と苦はひとつにつながっている」という真理であることになります。

この縁起の真理からは、「煩悩を断滅すべし、そうすれば苦から解脱できる」という無茶な指針は出てきません。なるほど煩悩を断滅することができるのでしたら、そのときにはもはや苦は存在しないでしょうが、しかしそれはわれらの存在そのものが消滅しているということに他なりません。「生きることはすべて苦」であり(苦諦)、「煩悩と苦はひとつにつながっている」(集諦)のですから、煩悩が断滅したときには、生きることそのものがなくなっています。さてこのように、集諦が「煩悩のあるところ苦があり、苦のあるところ煩悩がある」ということでしたら、滅諦はどうなるかと言いますと、「このように苦のあるところ煩悩があることに思い至ることが、取りも直さず涅槃のかどに入ることである」となります。


タグ:親鸞を読む
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