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疑をのぞき [『教行信証』精読(その10)]

(10)疑をのぞき

 さて、「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳をなす正智」につづいて、「難信金剛の信楽は疑をのぞき証を獲しむる真理なり」と言われます。まず、金剛のように堅い信心は「疑をのぞく」というのですが、信じているのだから、疑いがないのは当たり前ではないかと言われるかもしれません。しかしぼくらが普通に何かを信じるときは、その程度がどれほど少ないとしても、疑いの可能性を排除することはできません。どこまでも疑いが寄り添うのです。
 ぼくがいつも出す例は天気予報です。明日は100%晴れですという予報でも、そうは言っても雨かもしれないという疑いは残ります。100%晴れということは、もうそれ以外の可能性はないのではないかと言われるかもしれませんが、天気の確率というのはそういうことではなく、これまでのデータで見る限り、明日は100%晴れると推測できるということに過ぎません(これまでのデータによれば、雨であったことはないということ)。ですから、これまでにはなかった気象現象が明日とつぜんあらわれる可能性はどこまでもありうるわけです。
 このように普通の信は「疑をのぞく」ことはかないませんが、どうして本願名号の信心は「疑をのぞく」ことができるのか。
 親鸞が特に信巻を設けて明らかにしようとしたのは、この本願名号の信心の謎を解かんとするためでした。ですから本格的な解明は信巻を待たなければなりませんが、先回りをしてひと言述べておきますと、この信心は「如来より賜りたる」ものであるということです。ぼくらの普通の信は「こちらから獲得しなければならない」ものですが、本願名号の信は「むこうから与えられる」ということ。そして「こちらから獲得する信」にはどこまでも疑いがついてまわりますが、「むこうから与えられる信」は疑いの入り込む余地がないのです。しかしどうしてそんなことが言えるのか。

タグ:親鸞を読む
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