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三福の教え [『観無量寿経』精読(その76)]

(9)三福の教え

 韋提希が「われいま極楽世界の阿弥陀仏の所(みもと)に生ぜんことを楽(ねが)ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と請うたのに応じて釈迦が教えを説きはじめましたが、その最初に語ったのが三福でした。「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦して、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。極楽世界に生まれるためには、世福(世俗的な善)として「父母に孝養し、師長に奉事し」、そして戒福(小乗の善)として「三帰を受持し、衆戒を具足し」、さらに行福(大乗の善)として「菩提心を発し、深く因果を信じる」の三つを修めなければならないということです。
 この三福の教えと、いま読んでいる九品の往生との間につながりを見るのはそれほど難しいことではありません。すなわち、上品の三生の往生は大乗の善としての行福に、中品上生と中品中生の往生は小乗の善としての戒福に、そして中品下生の往生は世俗的な善としての世福に対応しているということです。上品から中品までは、それが大乗の善か小乗の善か、あるいは世俗的な善かの違いはあっても、みな善であり、したがって上品の往生人も中品の往生人もみな例外なく善人に違いありません。それに対してこの後に出てくる下品の人は、その程度に差はあっても、みな悪人であり、ここに大きな落差があると言わなければなりません(下品の人の往生をどう考えるべきかという問題が浮び上がりますが、それは後の課題として取っておきましょう)。
 さてこのように、釈迦は三福を修することによりかの国に生ずることができると説くのですが、これは自力の教えであることは言うまでもありません。そしてこれは本願他力の教え(彰の義)へと導き入れるための方便の教え(顕の義)であることをここであらためて確認しておきたいと思います。親鸞は「二善・三福は報土の真因にあらず。…如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり」と言っていました。

タグ:親鸞を読む
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