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お恥ずかしい [『教行信証』「信巻」を読む(その26)]

(6)お恥ずかしい


 ここでまたぼく流の言い方をさせていただくとしますと、「わたしのいのち」は一生造悪の「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち」のなかに摂取不捨され生かされていることに思い至りますと(これが信がひらけることに他なりません)、一生造悪の身であることに慚愧の念がおのずから生れ出てくるに違いありません。「あゝ、お恥ずかしい」という思いがあふれ出るに違いありません。そのとき「どんな悪もしていいではないか」などという思い上がった心が生まれるはずがありません。


「ただ五逆と誹謗正法を除く」という文言はこの「造悪無碍」の考えに釘を刺しているということができるのではないでしょうか。


先に引用しました親鸞による第十八願の注釈にはこう述べてあります、「〈唯除五逆誹謗正法〉といふは、〈唯除〉といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」と。「唯除」の文は、「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪」はないから、どのような悪人も例外なく往生できるが、しかし、だからといって五逆や誹謗正法などという罪を犯してもいいということにはならない、と言っているということです。


親鸞の残したことばには「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とか「善悪のふたつ、総じてもつて存知せず」とか、一見したところ、世の中の倫理秩序を否定するかのような言辞にあふれていますが、浄土真宗は決して倫理否定の思想ではありません。むしろ真実の信心があってはじめて上滑りしていない真の倫理の世界が開けるのではないでしょうか。真実の信心が与えられたということは、己のなかに渦巻く悪を凝視することに他なりませんが、その悪を慚愧するなかで、地に足のついたほんとうの倫理意識が芽生えてくると思うのです。



タグ:親鸞を読む
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