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11月13日(日) [矛盾について(その467)]

 イスタンブールの空港でのことです。かなりの待ち時間があり、ぼんやりあたりを見回していますと、コーナーにビールを飲ませるお店が目に入りました。アルコールご法度のイスラム圏で、さすがトルコは開かれているなと、一杯注文してグビリとやりました。そして、ふと待ちあい席に目をやりますと、そこには刺すような目でこちらを見ている人たちの姿がありました。非イスラム教徒の外国人向けのお店ですが、それでもアルコールを飲むことに対しては強い禁忌意識があることを感じさせられた瞬間でした。
 さて、ある方が「お茶をおいしくいただく、おいしいお菓子をいただく」といったことが「煩悩だ、煩悩だといわれてしまう」のをどう考えたらいいのかと金子氏に問いかけます。煩悩だといわれますと、おいしいお茶を飲むのも、おいしいお酒をいただくのも、おいしい刺身に舌鼓をうつのも、何か肩身が狭いように感じ、人生を楽しめなくなるという感覚。それに対する金子氏の答えが昨日のことばです。宗教は文化の上に君臨するのではなく、あらゆる文化の底にあってそれを支えるものだと。
 どういうことでしょう。
 お茶やお酒をおいしくいただくのは煩悩かと問われたら、それは煩悩だと答えるのが仏教でしょう。ぼくがよく出す例ですが、食卓に刺身の皿が二つありますと、おいしそうな方に手が出てしまう。目が貪っているのです。でも、だからと言って、お茶やお酒をおいしくいただくことが否定されるのではありません。むしろ、しっかり支えられるのではないでしょうか、「それでいいのだ」と。

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