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問題の所在 [『ふりむけば他力』(その17)]

             第2章 他力と気づき

(1)問題の所在

 これまでしばしば、「気づいたら」もうすでに本願他力のなかにあった、という言い方をしてきました。そのように言うしかないのですが、それは、他力は気づきにおいてしか存在しないということを意味します。他力はそれに気づいてはじめて存在するということであり、逆に言いますと、それに気づかなければ影もかたちもないもの、それが他力です。第1章で自力と他力の関係について、「自力か、それとも他力」ではなく、「自力で、かつ他力」であると述べてきましたが、他力はそれに気づいてはじめて存在するとしますと、他力に気づいていない人には、この世は自力しかなく、もう隅から隅までひたすら自力です。他力に気づいてはじめて、われらは自力で生きていながら、それがそっくりそのまま本願他力の上となるのです。
 さてこの第2章では「他力は気づいてはじめて存在する」ということについてじっくり考えてみたいと思います。
 「気づき」は学問の世界において市民権を得ているとは言えません。その理由は明らかで、気づきは主観的だからです。「あることに気づいた」という言明と「あることを知った」という言明を対比するとはっきりしますように、前者はそのように言う人にとって意味をもつだけであるのに対して、後者はそう言う人だけでなくみんなに関係してきます。前者も他の人たちに自分の気づいたことを聞いてもらいたいからことばとして表明されるのですが、聞く人は「そうか、君はそう気づいたのか」と思うだけで、それに興味を持つとしても、みんながそのように気づかなければならないとは思いません(ですから、それがおかしいと思ってもそれに反論しようとはしません)。
 それに対して後者はそのように言う人が知っただけでなく、みんながそれを知ることができること、そしていま知らない人もそれを知らなければならないということを含意しています(ですから、それがおかしいと思ったら反論しなければなりません)。「気づく」ことは主観的であるのに対して、「知る」ことは客観的であるということです。そして学問の世界では客観的であることがいのちとされますから、主観的な「気づき」には市民権が与えられないわけです。

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