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念仏往生の願と至心信楽の願 [『教行信証』「信巻」を読む(その17)]

(7)念仏往生の願と至心信楽の願


さて信心の相が十二も上げられ讃えられた後、「この心すなはちこれ念仏往生の願よりいでたり」と、信心の源となる願が念仏往生の願であることが明らかにされます。これまで繰り返し述べてきましたように、信心はわれら「に」起こりますが、わられ「が」起こすことはできず、それは本願のはたらきによって起こるのですが、その本願というのが第十八願で、それを念仏往生の願と名づけるというのです。この命名は法然によりますが、その元は善導にあります。


善導は四十八願の中心が第十八願にあるとして、その文言を自己流にいろいろと言い替えています(第十八願加減の文と言います)。たとえば『観念法門』ではこうです、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは、正覚を取らじ」と。これを元の「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ」と比べますと、「心を至して信楽し」が省略され、「乃至十念せん」が「わが名字を称すること、下十声に至るまで」とより詳しく言われていることが了解できます。


このように善導は第十八願の本質を「わが名字を称すること」に見ており、法然はそこからこれを念仏往生の願と名づけたわけです。もちろん念仏のなかにすでに信心が含まれていますが(信心が含まれていない念仏はたんなる呪文です)、信心よりも念仏の方に力点を置いているということです。一方、親鸞はこの願を「選択本願」、「本願三心(三心とは至心・信楽・欲生)の願」、「至心信楽の願」、「往相信心の願」と呼び、先に見ましたように標挙の願としては「至心信楽の願」を選んでいます。ここから見て取れますのは、親鸞は「念仏往生の願」という伝統の名を大事にしながらも、ここ「信巻」においては信心に力点を置いて「至心信楽の願」を選んだということです。



タグ:親鸞を読む
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