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第7回、本文3 [「『証巻』を読む」その71]

(8)第7回、本文3

前の文につづいて一法句が清浄句であること、そしてまた法性法身であることがさらに展開されます。

〈一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。この三句(一法句と清浄句と真実の智慧無為法身)は展転(てんでん)してあひ入る(この三つはお互いに収まる)。なんの義によりてかこれを名づけて法とする(なぜ一法句というかといえば)、清浄をもつてのゆゑに。なんの義によりてか名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもつてのゆゑなり。真実の智慧は実相(存在の真実の姿)の智慧なり。実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆゑに法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざることなし。このゆゑに相好荘厳すなはち法身なり(浄土の荘厳相がそのまま無相の法身である)。無知のゆゑによく知らざることなし。このゆゑに一切種智(完全なさとりの智慧)すなはち真実の智慧なり。真実をもつてして智慧に()づくることはなぜ真実の智慧というかというと、智慧は()おこすものにあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもつてして法身を()つることは、法身は色(かたちあるもの)にあらず非色にあらざることを明かすなり。非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是といふなり。おのづから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩へざるところなり(どれほど非を重ねてもよくあらわせるものではない)。このゆゑに清浄句といへり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なり。

注 原文は「非于非者豈非非之能是乎蓋無非之曰是也自是無待復非是也」。通常は「非を非するは、あに非を非するのよく是ならんや。けだし非を無(な)みする、これを是をいふ。みづから是にして待(たい)することなきも、また是にあらず」と読みます。「否定を否定するのはまさに肯定することで、否定を否むことが肯定です。ただ肯定するだけでそれでよしとするのはほんとうの肯定ではありません」といった意味でしょうか。すぐ前に「非色にあらざることを明かす」とあるのを受けて、「否定(非色)を否定する(あらざる)ことでほんとうの意味で肯定しているである」と言っているのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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