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『歎異抄』を聞く(その19) ブログトップ

立場ということ [『歎異抄』を聞く(その19)]

(11)立場ということ

 それにしても「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」とはどういうことでしょう。その反対の「善をもとめ、悪をおそれる生活」を考えてみればいい。ぼくらは本願名号に遇う前は、少しでも善をしよう、できるだけ悪をしないようにと必死ではなかったでしょうか。善と悪にがんじがらめになっていたのではないか。自分が置かれた場において最善をつくさなければならないと歯を食いしばってきた。
 善をもとめ、悪をおそれて生きるそのありようをよくよく見てみましょう、結局のところ、何をもとめ、何をおそれているのかと。
 安富歩という人がいます。『原発危機と東大話法』という本を読んで興味をもったのですが、その安富氏に「立場主義」ということばがあります。日本人は長いあいだ「家」に尽くすという生き方をしてきたが、近代以降、それが「立場」を守るという生き方に変わってきたというのです。たとえばぼくは学校の教師という立場につきましたが、以来その立場において最善を尽くそうと頑張ってきたと言えるでしょう。自分が置かれた場において、善をもとめ、悪をおそれて生きてきた。
 それは人間として当然のことで、それを立派にやり通す人が尊敬されますが、一歩退いて考えますと、そのことがぼくらを縛りつけ息苦しくさせてきたのではないでしょうか。そして、善をもとめ、悪をおそれているつもりが、結果的に悪をもたらし、善を遠ざけることになっているのではないか。自分の教師生活をふりかえって、そのことを痛感します。教壇から生徒に向かうとき、はだかの一人の人間としてではなく、教師としての「立場」からものを言っていたのではないか。それが自分を縛り、生徒を縛ることになっていたのではないか、と。
 どうしてそうなるのか。それは、自分が置かれた立場において、善をもとめ、悪をおそれて生きるとき、結局、何をもとめ、何をおそれていたか、ということです。

タグ:親鸞を読む
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