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仏智不思議をうたがひて [親鸞の和讃に親しむ(その106)]

(6)仏智不思議をうたがひて

仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は 宮殿(くでん)にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ(第79首)

ほとけの智慧をうたがって 善因善果信じれば 身に不自由はないけれど こころは闇にとざされる

仏智に気づかないものは何を信じて生きているかといいますと、それが「罪福」であると詠われます。罪福の罪とは悪業、福とは善業のことで、罪福を信じるとは「善因善果、悪因悪果」を信じるということです。善いことをすれば善い結果が起こり、悪いことをすれば悪い結果を招く、だからできるだけ善いことをするようにして、悪いことはしないようにすることだ、というのは世の善男善女の普通の信条です。この信条が浄土の教えに持ち込まれますと、本願を信じ念仏申すのは善いことだから、それをすることにより往生浄土という善い結果を得ることができる、となります。このように信じて日々念仏を欠かさないようにしている人はどんなにたくさんいることでしょう。しかし親鸞はこのような人を「仏智不思議をうたが」う人であるとし、みずからを「七宝の獄」(第65首)に閉じ込めている人だと言います。

それは信心も念仏も「わがちからにはげむ善」(『歎異抄』第5章)とすることであり、それによって往生浄土を「わがものがほに、とりかへさんと」(同、第6章)することです。

そもそも「善因善果、悪因悪果」の思想は(そして先の「自業自得」の思想も)仏教の縁起の法とはまったく別であると言わなければなりません。縁起の法は、あらゆるものは互いに他とつながりあっており、それだけとして自立するものは何ひとつないとします。ところが罪福の信は「わたし」が善因をえらぶことにより善果を手にすることができるとして、「わたし」をあらゆるもののつながりの中から切り離してしまいます。これは縁起の法の他力性とは対極にある自力の思想と言わなければなりません。かくして罪福を信じて生きることは、他力に生かされているという気づきがないがゆえに、「わたし」の力をたよりとして往生浄土という善き結果を得ようとする「自力のこころ」(同、第3章)であることが明らかになります。


タグ:親鸞を読む
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