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群生を度せんがために [『教行信証』精読2(その179)]

(10)群生を度せんがために

 「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」と述べている天親が「群生を度せんがために」というのでは何か具合が悪いような気がしないでしょうか。群生を度すのはあくまで阿弥陀仏ではないのかと思うからです。ところが親鸞という人は浄土論を融通無碍に読み込んでいきます。天親の浄土論を自分独自の浄土論へと換骨奪胎していくと言えばいいでしょうか。前にも言いましたが、浄土論を親鸞流に訓読していきますと、途中から不思議な気持ちになってきます。この書物はわれらが如何にして安楽国に往生できるかについて書かれているはずなのに、いつの間にかわれらと法蔵菩薩の境目があいまいになってきて、天親をはじめとするわれらと法蔵菩薩がひとつであるかのように思えてくるのです。
 たとえばこんなふうです。前半の願生偈が終わり、その意味するところを天親がみずから解説するそのはじめに、「五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生じ」ることができると述べ、五念門の礼拝・讃歎・作願・観察・回向の一々を説明していきます。その中の回向についての文は、普通に読みますと「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」となるはずのところを、親鸞はこう読むのです、「いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首となして大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに」と。
 いかがでしょう、回向する主体がわれらから法蔵菩薩へとコペルニクス的に転回してしまっています。いまはいちばん分かりやすい回向だけを取り上げましたが、礼拝・讃歎・作願・観察・回向の五行すべてについて、われらがそれらを修めることにより往生できると読むべきところを、法蔵菩薩がすべてを修めてくださったと読んでいくのです。法蔵菩薩が兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行の中でそれらすべてを成就し、その結果として一切衆生の往生が可能になったということです。こんなふうに法蔵菩薩が主体であるということになりますと、「群生を度せんがために」という言い回しも不自然ではなくなります。天親が「群生を度す」かのように見えて、実は法蔵菩薩が「群生を度せんがために」さまざまにはからってくださっているということです。

タグ:親鸞を読む
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