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報恩のためのゆゑに [「信巻を読む(2)」その58]

(12)報恩のためのゆゑに

ここでは『安楽集』のさまざまな箇所から、『大智度論』と『大経』と『大悲経』の三つの文が引かれています。『大智度論』の文は「なぜ念仏か」について論ずる中に出てくるもので、これを要するに仏のお陰を蒙って真実に遇うことができたという大恩があるからこそ、つねに仏を憶念するのだということです。二つ目の『大経』の意を取って述べられている文は「なぜ発菩提心か」について論じ、自利利他円満の菩提心を起こすことこそ仏道の要であると述べています。そして最後の『大悲経』の文は「大悲とは何か」について、「展転してあひ勧めて念仏を行ずる」ことこそ大悲の行であることを指摘しています。これらの文は、真の仏弟子(念仏の行者)には「知恩報徳の益」や「常行大悲の益」があることを述べようとしていると思われます。

念仏とは何かという原点に立ち返りましょう。「いのち、みな生きらるべし」という弥陀の「ねがい」(本願)が「南無阿弥陀仏」の「こえ」(名号)としてわれらに聞こえたとき(聞其名号のとき)、われらの心に慶びがあふれ(信心歓喜)、それが「南無阿弥陀仏」の「こえ」として口をついて出る、これが称名念仏です。ここまではあくまで本願名号が届いた人自身のことですが、さてしかしことはそれで終わりません。その人の口をついて出た「南無阿弥陀仏」の「こえ」は他の誰かに届けられることになるということです。本人にはそんな意識はなく、ただ摂取不捨の利益にあずかった慶びの発露としての念仏ですが、それが図らずも利他教化のはたらきをするのです。

「ほとけのいのち」に摂取不捨された慶びが南無阿弥陀仏の「こえ」となって口をついて出ることが「知恩報徳」の念仏であり、その「こえ」が衆生教化のはたらきをするということが「常行大悲」の念仏です。すぐ前のところで、真実のことばを受信すると、それを発信せざるを得なくなると言いました(10)。南無阿弥陀仏という真実のことばを受信することは往相ですが、それはおのずから南無阿弥陀仏を発信するという還相となるのであり、往相と還相は別ものではありません。

(第5回 完)


タグ:親鸞を読む
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