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笠間の念仏者 [親鸞の手紙を読む(その16)]

(2)笠間の念仏者

 この手紙の末尾をみますと、「建長七歳乙卯(きのとう)十月三日 愚禿親鸞八十三歳書之」とあり、さらにその後に、「この書簡は、性信房(しょうしんぼう)のお住まいに残されていた親鸞聖人ご自筆のものから写して、かの門弟たちに与えられたものだと言われています」という編者・従覚の奥書がついています。性信房といいますのは、親鸞の門弟の代表的な人物のひとりです。関東の弟子たちは、地域的に大まかに三つのグループに分かれていました。一つはこの性信を中心とした横曽根門徒、二つは真仏・顕智を中心とした高田門徒、三つは順信を中心とした鹿島門徒です(横曽根、高田、鹿島は下総・下野・常陸の地名です)。表題にある「笠間の念仏者」とは横曽根門徒のことで、その中からでてきた疑問に答えてこの手紙が書かれたものと思われます。
 この手紙の背景を考えておく必要があります。これが書かれたのは建長七年(1255年)の十月ですが、その翌年の五月に長男・善鸞に対して義絶状が書かれています。有名な善鸞義絶事件です。父・親鸞の名代として関東に赴いた善鸞が、おそらくは親鸞面授の弟子たちへの対抗心からでしょう、自分は父から秘密の教えを受けてきたと吹聴するようになり、それが大きな混乱を引き起こしていきました。その混乱の様子はいくつかの手紙のなかに生々しく出てきますが、善鸞に宛てた手紙(おそらくは建長七年十一月に書かれたと思われます)にはこうあります。
 「慈信房(善鸞のことです)のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、ひごろの念仏はみないたづらごとなりとさふらへばとて、おほぶ(大部、常陸の地名)の中太郎のかたのひとびとは、九十なん人とかや、みな慈信房のかたへとて、中太郎入道をすてたるとかや、ききさふらふ。いかなるやうにて、さやうにはさふらふぞ(あなたがそちらに下り、自分が聞いてきた教えこそ真であって、みんなが日頃称えている念仏はみな無駄ごとだと言われたとかで、大部の中太郎のもとにいた九十何人があなたの方について中太郎を捨てたそうですが、どうしてそのようなことになるのでしょうか)」。

タグ:親鸞を読む
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