SSブログ
『教行信証』精読(その64) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読(その64)]

(6)本文3

 『平等覚経』からの引用がつづきます。

 阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大きに歓喜し踊躍して、心中にともに願じていはまく、われらまた作仏せん時、みな無量清浄仏のごとくならしめんと。仏すなはちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまはく、この阿闍世王太子および五百の長者子、のち無央数劫をさりて、みなまさに作仏して無量清浄仏のごとくなるべしと。仏ののたまはく、この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道をなしてこのかた無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養しをはりて、いままた来りてわれを供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏(かしょうぶつ)の時、わがために弟子となれりき。いまみなまた会して、これともにあひ値へるなりと。すなはちもろもろの比丘僧、仏の言(みこと)をききて、みな心踊躍して歓喜せざるものなけんと。乃至 (本文4につづく)

 (現代語訳) マガダ国の阿闍世王太子と五百の長者の子たちは、無量清浄仏(阿弥陀仏)の二十四願を聞いて、みな歓喜踊躍して、こころの中でこう願いました、われらも仏となるとき、この仏のようになりたいと。釈迦はそれをお知りになり、その場にいた多くの比丘僧たちにこう告げられました、この阿闍世王太子と五百の長者の子たちは、この後はるかな未来にみな仏となって阿弥陀仏のようになるであろうと。またこう言われました、この阿闍世王太子と五百の長者の子たちは菩薩の道を歩みだしてよりこれまでのはるかに長い間、みな四百億の仏を供養してきて、いままたわたしを供養している。この阿闍世王太子と五百の長者の子たちは、前世に迦葉仏(釈迦仏の前の仏)のとき、わたしの弟子となり、いま再びここにあい遇うことになったと。それを聞いた多くの比丘僧たちは、みな踊りあがるほどに喜んだことでした。

 この阿闍世王太子と五百の長者の子たちについての一段は『大阿弥陀経』にも出てきますが、後期無量寿経では消えてしまいます。親鸞は『大経』にはなくなったこの話を補っているのですが、そこにはどういう意図があるのでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その64) ブログトップ