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『教行信証』精読2(その82) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読2(その82)]

(13)本文4

 これまで、不回向の行について、摂取不捨について、そして信心正因について説かれてきましたが、次は行の一念について述べられます。

 おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり。また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の徧数(へんじゅ)について選択易行の至極を顕開す。
 ゆゑに『大本』(無量寿経)にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、このひとは大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」と。已上
 光明寺の和尚は「下至一念」といへり。また「一声一念」といへり。また「専心専念」といへり。已上
 智昇師の『集諸経礼懺儀』(礼讃の文を集めたもの。その下巻は善導の『往生礼讃』の全てを収める)の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅をいでずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等(元の『往生礼讃』では「下至十声一声等」となっているが、『集諸経礼懺儀』では「下至十声〈聞〉等」とある)に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心となづく」と。已上

 (現代語訳) 往相回向の行と信について、行の一念と信の一念があります。いま行の一念といいますのは、称名の数について、選ばれた易行の極まりをあらわすものです。
 だからこそ、大経にはこうあります。釈迦が弥勒に言われるには、弥陀の名号を聞くことができ、その喜びがただ一声の称名となることで、その人は大いなる利益をえることができ、この上ない功徳がそなわるのですと。
 善導大士は「下一念に及ぶまで」と言われ、また「一声一念」と言われ、さらには「専心専念」と言われます。
 智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻には善導大士の『往生礼讃』が収められていますが、そこにはこうあります。『観経』の深心とは真実の信心のことで、まず、自分は煩悩具足の凡夫であり、善根は薄くして迷いの世界を流転してそこから出ることができないと信じ、次いで、弥陀の本願は、名号を十声でも聞・称するだけで、かならず往生させていただけると信じて、少しも疑いのこころがないことであり、だからこそ深心とよばれるのですと。

タグ:親鸞を読む
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