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如来とひとし [『教行信証』「信巻」を読む(その33)]

(2)如来とひとし


「如来とひとし」ということについては、関東の弟子に宛てて書いた手紙のなかで次のように言っています、「浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ」と。これは性信房宛てですが、真仏房宛ての手紙でも「『華厳経』にのたまはく、〈信心歓喜者与諸如来等〉といふは、〈信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし〉といふなり」と述べています。そしてさらにこの「もろもろの如来とひとし」ということについて、ここに引用されている「見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」を出してその根拠としているのです。


信心を得た人は「わが善き親友」であるということは、その人はもう「如来とひとし」いということに他ならないということです。


これはしかし、ある意味、途方もないことと言わなければなりません。信心を得ることで「あさましき不浄造悪の身」が「如来とひとし」と言うのですから。そこで、あらためて信心を得るとはどういうことかを思い返しておきたいと思います。「信心を得る」という言い回しは、どうしても「われら」がどこかにある本願をゲットするというイメージを伴います。しかし本願とは「どこかにある」もの(体)ではなく、いま本願力としてわが身の上に「はたらきかけている」もの(力用)です。そのはたらきがわが身に生き生きと感じられる(本願力にゲットされる)ことが信心に他なりませんから、本願と信心はひとつです。あちらに本願があり、こちらに信心があるのではありません、「いまここ」に本願=信心があるのです。


としますと信心の人とは本願の人です。そしてそれは、信心の人は法蔵菩薩であるということに他なりません、本願の人というのは法蔵菩薩ですから。さあしかし、これまた途方もない言い分に思えます。とんでもない妄説としてどこかからお叱りがくるかもしれません。『大経』によりますと法蔵菩薩が成仏して阿弥陀仏となったのですから、信心の人が法蔵菩薩であるということは、信心の人は阿弥陀仏であることになるではないかと。なるほど信心の人は阿弥陀仏であるなどといえば、とんでもない妄言と言わなければなりません。しかし信心の人は法蔵菩薩であるというのは、信心の人は「如来とひとし」ということであって「如来とおなじ」ということではありません(親鸞は「ひとし」と「おなじ」をきちんとつかいわけています)。



タグ:親鸞を読む
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