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菩提心について二種あり [「信巻を読む(2)」その1]

第1回 願作仏心は、すなはちこれ度衆生心

(1) 菩提心について二種あり

みなさん、こんにちは。今年の6月20日で中断していました「『教行信証』信巻を読む」を再開し、「信巻を読む(2)」として、つづけてまいりたいと思います。

ここまで長きにわたって三心一心問答(第十八願の至心・信楽・欲生は、みな如来回向の真実信心であり、天親の一心に他ならないという議論、これが信巻前半のメインです)が展開されてきましたが、そのなかで出てきた重要な論点についてさらに注釈が加えられていきます。その第一が「菩提心(仏のさとりを求め、衆生利他をめざす心)」についてです。先に欲生心に関わって「金剛の志」すなわちどんな状況に置かれても破壊されることのない菩提心について論じられましたが、それをここでもういちど主題としようということです。まず親鸞の自釈です。

しかるに菩提心について二種あり。一つには(しゅ)(自力の意)、二つには(おう)(他力の意)なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実(権教すなわち方便の教えと、実教すなわち真実の教え)・顕密(顕教と密教)・大小(大乗と小乗)の教に明かせり。歴劫(りゃくこう)迂回(うえ)(長い時間をかけてまわり道すること)の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑(正行すなわち読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆回向の五行と、雑行すなわちそれ以外の万善諸行)・定散(息慮凝(そくりょぎょう)(しん)の定善と廃悪修善の散善)、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。横竪の菩提心、その(ことば)一つにして、その心なりといへども、入真を正要(しょうよう)とす、真心を根本とす。(じゃ)(ぞう)(しゃく)(あやまり)とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹(ごんぐじょうせつ)の道俗、ふかく信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。

さまざまなことばが出てきますので、できるだけ本文のなかに短い解説を加えましたが、最後の一文にある「信不具足」と「聞不具足」について一言しておきましょう。「信不具足」はすでに信楽釈のところで『涅槃経』からの引用文のなかに出てきましたが、それが指しているのは、「聞よりして生じて思より生ぜざる」こと、すなわちただ上っ面を聞いているだけで、心の奥に届いていないこと、そして「ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざる」こと、すなわち本願の信はすでに信を得た人(よきひと)を通じてしか得られないことに気づいていないということです。「聞不具足」はもう少し先で引用される『涅槃経』の文に出てきますが、教法の半ばを聞いて、全体を聞いていないこと、すなわち聖道門だけを聞いて、浄土門があることを知らないということです。


タグ:親鸞を読む
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