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『唯信鈔文意』を読む(その139) ブログトップ

本文17 [『唯信鈔文意』を読む(その139)]

                第10回 

(1)本文17

 「具三心者必生彼国(ぐさんしんしゃ、ひっしょうひこく)」といふは、三心を具すればかならずかのくににむまるとなり。しかれば善導は、「具此三心必得往生也若少一心即不得生(ぐしさんしん、ひっとくおうじょう、にゃくしょういっしん、そくふとくしょう)」とのたまへり。具此三心といふは、みつの心を具すべしとなり。必得往生といふは、必はかならずといふ。得はうるといふ。うるといふは往生をうるとなり。若少一心といふは、若はもしといふ、ごとしといふ。少はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬればむまれずといふなり。一心かくるといふは、信心のかくるなり。信心かくといふは、本願真実の三信のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに『大経』の三信心をうるを一心をうるとはまふすなり。このゆへに『大経』の三信心をえざるおば一心かくるとまふすなり。この一心かけぬれば真の報土にむまれずといふなり。『観経』の三心は定散二機(じょうさんにき)の心なり。定散二善を回(え)して『大経』の三信をえむとねがふ方便の深心(じんしん)と至誠心(しじょうしん)としるべし。真実の三信心をえざれば、即不得生といふなり。即はすなわちといふ。不得生といふはむまるることをえずといふなり。三信かけぬるゆへに、すなわち報土にむまれずとなり。雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆへに、多生曠劫(たしょうこうごう)をへて、他力の一心をえてのちにむまるべきゆへに、すなわちむまれずといふなり。もし胎生辺地(たいしょうへんじ)にむまれても、五百歳をへ、あるいは億千万衆の中に、ときにまれに一人真の報土にはすすむとみえたり。三信をえむことをよくよくこころえねがふべきなり。

 (現代語訳) 『観経』に「具三心者必生彼国(三心を具する者は、必ずかの国に生ず)」と言いますのは、三心を持てば必ず浄土に生まれるということです。ですから、善導大師は「具此三心必得往生也若少一心即不得生(この三心を具して必ず往生を得る也。若し一心かけぬればすなはち生ずることを得ず)」と言われました。「具此三心」と言いますのは、三つの心を持つべきだと言うのです。「必得往生」の「必」とは「かならず」ということ、「得」は「える」ということで、往生を得るということです。「若少一心」の「若」は「もし」ということ、「ごとし」ということです。「少」は「かける」ということ、「すくない」ということです。一心が欠ければ、往生できないということです。一心が欠けるというのは、信心が欠けるということです。信心が欠けるというのは、第十八願に言う真実の三信心、至心、信楽、欲生が欠けるということです。『観経』に説かれている三心を得てのちに、『大経』に説かれている三信心を得ることを一心を得るというのです。ですから、『大経』に説かれている三信心を得ていないことを一心が欠けると言うのです。この一心が欠ければ真実の浄土に生まれることができないと言うのです。『観経』の三心は、定善、散善を修行する行者の心です。それは、定善と散善を回向して『大経』の三信心を得ようと願う方便の深心、至誠心だと知るべきです。真実の三信心を得なければ、「即不得生」だというのです。「即」とは「ただちに」ということ。「不得生」とは生まれることができないということです。三信心が欠ければ、ただちに浄土に生まれることができないということです。さまざまな修行をしている定散の機の人は、他力の信心が欠けていますから、限りなく生死を繰り返して、ようやく他力の一心を得てはじめて浄土に往生できるのです。ですからただちに往生できないと言うのです。もし他力の信心が欠けていて胎生辺地と呼ばれる化土に生まれましたら、五百年を経なければならず、億千万人の中にまれに一人真実の浄土に往生できるぐらいです。ですから、三信心を得ることをよくよく願うべきです。

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