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主観的な存在と客観的な存在 [『ふりむけば他力』(その18)]

(2)主観的な存在と客観的な存在

 「他力は気づいてはじめて存在する」ということは、他力はそれに気づいた人にだけ存在し、気づかない人には存在しないということ、すなわち主観的な存在だということです。ところで学問の世界では客観的な存在だけが問題とされますから、他力という主観的な存在は排除されることになります。ここでひとつはっきりさせておかなければならないのは、「気づかなければ存在しない」ということと「知らなければ存在しない」ということの違いです。ニュートンの万有引力(すべての物体が互いに引きあう力)を例に取りますと、万有引力はニュートンがそれを発見するまで誰もその存在を知りませんでしたから、存在しなかったと言ってもいいでしょう。「万有引力はそれを知らなければ存在しない」ということですが、そのことと「本願他力はそれに気づかなければ存在しない」ということはまったく違うということです。
 万有引力は、それを知りませんと、その人の意識においてそれが存在していないのと変わりがありません。しかし知ろうが知るまいが万有引力はすべての人にはたらいています。われらが丸い地球から落っこちることなく生きていけるのは万有引力がはたらいているおかげです。ところが本願他力はそれに気づきませんと文字通り存在しません。それに気づいてはじめてわれらを救うという何ものにも代えがたいはたらきをしますが、気づきませんと影もかたちもなく、何のはたらきもありません。このように知ろうが知るまいが存在する客観的な万有引力と、気づいてはじめて存在し、気づかないとどこにも存在しない本願他力とでは存在の仕方がまったく異なると言わなければなりません。
 さて学問の世界において主観的な存在は問題にされないのはともかく(ただし主観的な存在について客観的に議論する学問の領域はなければならないと思いますが)、日常の世界においても主観的な存在は存在として認められない傾向があります。「存在する」というのは、みんなにとって存在するということであり、気づいた人にしか存在しないというのは存在の名に値しないとされるのです。しかしこれは「存在」の範囲を不当に狭めるものではないでしょうか。気づいた人にだけ存在するというのも、存在のひとつのありようとして認めるべきです、もちろん「気づく」ことと「知る」ことの違いをはっきりさせた上で。

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