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たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ [『ふりむけば他力』(その118)]

(14)たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

 「わがもの」の物語に囚われていることの気づきは、その物語の内部から起こることはなく、外部からやってくるしかありませんが、われらは外部に出ることはできませんから、それを語ろうとしますと弥陀の本願という「他力の物語」に委ねざるをえないわけです。かくして、囚われの気づきは弥陀の光明と名号としてわれらにもたらされると物語られることになります。ここに物語というかたちを取っているとはいうものの、他力ということばのもっとも深い意味が明らかにされていると言えます。囚われの気づきは自力で得ることはできず、他力により与えられるしかないということです。
 さてそこで先の問いに答えなければなりません。弥陀の光明と名号は十方世界に隈なく送り届けられているはずなのに、どうしてそれが届いている人と届いていない人がいるのかという問いです。
 ここで参照したいのが『教行信証』の序の一節です。「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」。「弘誓の強縁、多生にも値ひがたく」とは、本願に遇う(気づく)ことはとんでもなく難しいということであり、「真実の浄信、億劫にも獲がたし」とは、弥陀の光明・名号を信ずる(気づく)ことは至難のわざであるということです。しかし、阿弥陀仏はその本願に気づかせようと、光明と名号を十方世界に隈なく送り届けているはずですから、それに遇うこと(気づくこと)がどうしてそんなに難しいのでしょう。
 その答えが「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」という文言にあります。光明・名号が届けられているから、行信(気づき)が起こるのですが、ただ、光明・名号と行信のつながりは宿縁によって媒介されているということです。光明・名号が与えられていても、それの気づきが起こるかどうかは宿縁によるのであり、宿縁がなければ「多生にも値ひがたく」「億劫にも獲がたし」と言わなければなりません。そして宿縁があるかどうかは、「たまたま行信を獲」ることができてはじめて分かります。弥陀の光明と名号は十劫の昔から十方世界に送り届けられています。でも、それにわれらが遇うことがなければ(気づくことがなければ)、それはどこにも存在しません。そしてそれに遇うことができるかどうかはその宿縁があるかどうかにかかっているのです。

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