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真実信心うることは [親鸞最晩年の和讃を読む(その48)]

(4)真実信心うることは

 信心のあるところ、すでに往生がある、と言っているのが本願成就文の「願生彼国、即得往生、住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生をえ、不退転に住せん)」であると親鸞は見ました。彼はここに『大経』の眼目があると考え、それを「現生において正定聚となる」と表現したのです。親鸞にとって往生することと正定聚となることは同じことを意味します。『一念多念文意』において本願成就文を解説して、「真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを往生を得とはのたまへるなり」と言っているのがその何よりの証拠です。
 さてその真実信心を得ることはいかにまれであり、むずかしいことかが次の和讃で詠われます。

 真実信心うることは
  末法濁世にまれなりと
  恒沙(ごうじゃ)の諸仏の証誠(しょうじょう)1に
  えがたきほどをあらはせり(45)

 注1 『阿弥陀経』にあるように、ガンジス河の砂の数ほど多い仏たちが口々に述べてくださっている、ということ。

 なぜ「真実信心うること」はそれほど「まれ」であり「えがたき」ことであるのでしょう。まずなによりも「うる」ということばに注目しなければなりません。信心を「うる」となりますと、当然「わたし」が信心を「うる」ということであり、それは信心を「わたし」のなかに取り込むことであると了解します。ここからボタンの掛け違いがはじまることはこれまで繰り返し巻き返し述べてきたところです。「わたし」が信心を取り込む(ゲットする)のではありません、信心が「わたし」を取り込む(ゲットする)のです。

タグ:親鸞を読む
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