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信心とは [「『おふみ』を読む」その30]

(5)信心とは

生まれる前から往生できることが定まっている、というのはどういうことでしょう。

おたまじゃくしは、生まれる前から蛙になることが決まっています。ということは、おたまじゃくしは、その姿かたちはどれほど蛙から遠いとしても、もうすでに蛙であるとも言えるのではないでしょうか。同じように、われらは、生まれる前から仏になることが定まっているとしますと、その姿かたちはどれほど仏から遠いとしても、もうすでに仏であると言ってもいいのではないか。それを親鸞は「仏とひとし」と表現します。仏と同じではないが、すでにつねに仏とひとしい。としますと「実際に仏になる」ことはもはやおまけのようなものです。

さてしかし、ここに信心の問題があります。あらゆる衆生が例外なく往生できることが決まっているとしても、それに気づかないままですと、生死の迷いのなかを漂よわなければならず、それに気づいてはじめて摂取不捨の利益に与ることができるのです。この気づきこそが信心です。蓮如は正定聚と滅度の問題につづいて、この信心の問題を出します。往生が定まったとこころえられたうえに、「なにとて、わずらわしく、信心を具すべきなんど沙汰そうろう」か、と。

蓮如は、この問いに「まことにもって、このたずねのむね肝要なり」と言いながら、さてどう答えるのかと身構えますと、「されば、いまのごとくにこころえそうろうすがたこそ、すなわち信心決定のこころにて候なり」と答えるだけで、何か肩すかしを食らわされたような感じになります。ここは信心についてもっと丁寧に答えなければならないところではないでしょうか。なにしろ「親鸞聖人の一流」では信心為本で、蓮如もことあるごとに「一念帰命の他力の信心」が肝要と言うのですから。


タグ:親鸞を読む
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