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菩薩とは誰のこと? [「『証巻』を読む」その85]

(2)菩薩とは誰のこと?

「願偈大意」は文字通り「願生偈」の大意、すなわち浄土を観じてそこに生まれたいと願うことを述べ、「起観生信」は、ではどのように浄土を観じ、どのように信心を起こせばいいかと問い、それは礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門であると答えます。「観察体相」は五念門の中心である観察行について、それは国土の十七種の荘厳、仏の八種の荘厳、そして菩薩の四種の荘厳、あわせて二十九種の荘厳を観察することであると述べます。そして「浄入願心」は先々回、先回と見てきましたように、浄土の二十九種の荘厳はみな法蔵菩薩の清浄願心によることを明らかにします。そしてこれから「善巧摂化」に入り、「かくのごとく菩薩は、奢摩他と毘婆舎那を広略に修行して柔軟心を成就し、如実に広略の諸法を知る。かくのごとくして巧方便回向を成就す(これが通常の読みで、親鸞は自分流に読み替えています)」とはじまります。

さてまず問題になるのが、ここで「菩薩」と言われているのが誰をさすかということです。上に見てきました流れから、天親としては「願生の行者」すなわち五念門を修めて浄土往生を願うものをさすことは明らかです。ここまでのところで行者のなすべき五念門の中の観察門まで終わったから、最後の回向門について説こうということです。曇鸞もその前提で注釈していると言えますが、親鸞はこの菩薩を法蔵菩薩と読みます。前に(第4回の10)述べましたように、親鸞は『浄土論』を読むにあたり、主語を「願生の行者」から「法蔵菩薩」へと転換するのです、五念門を修めるのは「願生の行者」ではなく「法蔵菩薩」であると。かくして通常は「(願生の行者は)巧方便回向を成就す」と読むところを「(法蔵菩薩は)巧方便回向を成就したまへり」と読まれることになります。

さてしかしそうしますと、親鸞がここでこの『論註』の文を引用している意図はどうなるのかという疑問が生まれます。親鸞は還相回向とは何かを明らかにするためにこの一連の文を引用しているのですから、その意図からしますと、この「菩薩」は「還相の菩薩」でなければ意味がありません。かくして事態は困難な様相を呈してきます。ここで「菩薩」と言われているのは「還相の菩薩」でしょうか、それとも「法蔵菩薩」なのでしょうか。


タグ:親鸞を読む
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