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正信偈と現代(その202) ブログトップ

偈文24 [正信偈と現代(その202)]

              第24回 おわりに

(1)偈文24

 弘経大士宗師等(ぐきょうだいじしゅうしとう)    弘経の大士・宗師等、
 拯済無辺極濁悪(じょうさいむへんごくじょくあく) 無辺の極濁悪を拯済したもう。
 道俗時衆共同心(どうぞくじしゅぐどうしん)    道俗時衆ともに同心に、
 唯可信斯高僧説(ゆいかしんしこうそうせつ)    唯、この高僧の説を信ずべし。

 (現代語訳) これまで名前をあげてきました七人の高僧方は、限りない濁りと悪に満ちたものたちを救いとってくださいます。みなさん、僧も俗も心をひとつにして、ただこの高僧たちの言われることを信じてまいりましょう。

 七高僧たちが説くのは、ただただ南無阿弥陀仏により救われるということです。阿弥陀仏により救われるのではありません、南無阿弥陀仏により救われるのです。どう違うか。これを最後に考えておきたいと思います。
 「阿弥陀仏により救われる」となりますと、どうしても、こちらに救われるわれらがいて、あちらに救う阿弥陀仏がいる、という構図がうかびます。われらと阿弥陀仏とが離れてしまうのです。でも「南無阿弥陀仏により救われる」といいますと、南無阿弥陀仏の声(「そのまま生きていていい」であり、「帰っておいで」です)が聞こえることが取りも直さず救われること、という意味です。ここではわれらと南無阿弥陀仏とは離れていません、一体です。
 少し前になりますが「ためしてガッテン」というテレビ番組を見ていましたら、ボディタッチすること(ちょっと触ったり、背中をなでたり、あるいはハグしあったり)でオキシトシンというホルモンが多く分泌され、認知症の症状が改善したり、リウマチによる痛みが抑えられるなど、驚くべき癒し効果があると言われていました。そしてそれは身体が触れ合うだけではなく、何かストレスを感じた直後に電話で好きな人の声を聞くことでももたらされるそうです。興味深かったのは、触れられるとか声が聞こえるというのは誰かとの直のつながりを感じることであり、それが癒しになるということです。
 つながりを感じることがそのまま救いであるということ。考えてみますと、釈迦が説いた無我とか縁起とは、このつながりのことではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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