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円環のリレー [『正信偈』を読む(その70)]

(8)円環のリレー

 びっくりされたでしょうか。でも、法蔵菩薩も救われなければなりません。救われるからこそ、救いのバトンタッチをすることができるのです。では、法蔵菩薩はどこからそのバトンを受けたのでしょう。経典では世自在王仏をはじめとする過去の諸仏ということになりますが、それは突きつめれば一切衆生ということにならないでしょうか。
 これは先の例で、旧帝国軍隊の指揮命令系統をずっと遡りますと、最終的には天皇に行き着きますが、その天皇の指揮命令権のもとはせんじ詰めれば国民の信託にあるという構図と似ています。
 改めて法蔵菩薩の誓願の形式を見てみましょう。「たとひわれ仏をえたらんに、十方の衆生、心をいたし信楽してわがくににむまれんとおもふて、乃至十念せん。もしむまれずば正覚をとらじ」。これは第十八願ですが、四十八の願すべてがこの「たとひわれ仏をえたらんに(設我得仏)、…正覚をとらじ(不取正覚)」という形式です。
 つまり、「かくかくのことを成しとげたい、さもなければ仏とはならない」ということで、十八願で言いますと「一切の衆生をわが浄土に迎えて救いとることがなければ、わたしも救われることはない」という内容です。
 ここに法蔵菩薩も救われなければならないことがはっきり示されています。そしてその救いは一切衆生から渡されるものであるということ、これが肝心です。われら一切衆生は法蔵菩薩により救われるのですが、その法蔵菩薩は一切衆生に救われる。こうして本願のリレーは始点のない円環であることが判明します。
 本願とは言うまでもなく法蔵菩薩の願いですが、それは実は、一切衆生のほんとうの願いであるということ。そしてその願いは「救われる」こと、「南無阿弥陀仏(そのまま生きていていい)」の声を聞くことに他ならないということです。
 本願のリレーは円環のリレーです。

            (第9章 完)

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