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他力をたのみたてまつる悪人 [『観無量寿経』精読(その86)]

(7)他力をたのみたてまつる悪人

 一方、悪人はどうか。経文を読みますと、下品上生のものも下品中生のものも、善知識が慈悲のこころで念仏を勧めたり、阿弥陀仏を讃歎するのを何とも素直に聞き入れているのが印象的です。もろもろの悪業を作ってきた人たちですから、善知識が本願念仏の教えを説いても聞く耳を持たないのではないかと思うのですが、臨終という特殊な状況であるとはいえ、言われることばを素直に受け入れている姿には意外な思いがします。ここにも表にははっきり現れていないことが潜んでいると思われます。
 『歎異抄』に善人とは自力作善の人であるとありました。客観的にみて善人であるということではなく、自力で善をなしていると自覚している人が善人であるということです。同じように下品段で悪人といわれる人もまた客観的にみて悪人ということではなく、自分を悪人と思っている人であると考えるべきでしょう。「オレはどうしようもない悪人だ」と思っている人が悪人です。経文には「もろもろの悪業を作る」とありますが、もし本人が「オレは別に悪人ではない」と思っていればどうでしょう。もしそうなら、善知識がどれほど懇ろに本願念仏の教えを説こうと、素直に聞く耳をもたないのではないでしょうか。「オレは救われがたい悪人だ」という思いがあるからこそ、善知識のことば(を通して聞こえる本願の声)が身に沁みるのに違いありません。
 先の、「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」につづいて、こうあります、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき」と。ここで親鸞は「煩悩具足のわれら」と言います。われらは煩悩具足の悪人であるとはっきり言う。そして、どうしようもない悪人であるという気づきがあるからこそ、このようなわれらのために本願念仏があるのだという気づきがやってくるのだということです。かくして「善人だにこそ往生すれ、まして悪人は」と言えるのだと。

タグ:親鸞を読む
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