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機法二種深信 [正信偈と現代(その187)]

(8)機法二種深信

 次に煩悩の闇があるから弥陀の光があるということ。これは一見したところ理不尽に思えます。煩悩の闇があろうがなかろうが、弥陀の光は十劫のむかしから(どんな過去よりももっと過去から)照らし続けているはずではないか。それはまったくその通りです。空の鳥たちはもとから弥陀の光に照らされて無邪気に生きています。ただ、彼らはそのことに気づいていません。弥陀の光を弥陀の光とも知らず、ひたすら弥陀の光を浴びているだけです。どうして気づかないかと言いますと、彼らには煩悩の闇がないからです。闇がありませんと光を光と気づかないのです。
 闇を知らず、したがって光も知らない空の鳥たちは、ある意味ではいちばん幸せなのかもしれません。われらはどういうわけか煩悩という闇を背負い込むことになり、その結果として空の鳥たちには縁のないさまざまな苦悩をあじわうことになったのですが、しかし煩悩の闇に気づくことはそのまま弥陀の光に気づくことであり、それは何にも代えがたい喜びです。これが善導の言う機法二種深信に他なりません。「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して出離の縁あることなし」と気づくこと(機の深信)が取りも直さず「かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂取してうたがひなくおもんぱかりなければ、かの願力に乗じて定めて往生をう」と気づくこと(法の深信)です。
 親鸞のことばで言いますと、「とても地獄は一定すみかぞかし」という気づきがそのまま「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という気づきに他なりません。悲しみの気づきが喜びの気づきであるという不思議。念のためですが、煩悩の闇も弥陀の光も客観的にどこかにあるわけではありません。闇を闇と気づくところにはじめて闇があり、光を光と気づいてはじめて光があります。しかもこの二つの気づきはつねに相伴っていて、一方だけがあって他方がないということはありません。どちらもあるか、さもなければどちらもないのです。

                (第21回 完)

タグ:親鸞を読む
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