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往生をばとぐる [『歎異抄』を聞く(その12)]

(4)往生をばとぐる

 「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」につづいて「往生をばとぐるなりと信じて」ときます。往生とは言うまでもなく浄土へ往くということで、伝統的には、浄土に往生するのはいのち終えたあと、来生のことだと考えられてきました。でも親鸞としては、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせる」ことがすなわち「往生をばとぐるなりと信ずる」ことです。「南無阿弥陀仏」の声が聞こえて「あゝ、救われた」と思う、それがとりもなおさず往生することに他なりません。これはしかし浄土教のオーソドックスな理解とは大きく異なります。
 伝統的には、今生において弥陀の本願を信じ、来生に浄土往生させていただくと考えられてきました。そしてその大事な儀式として臨終の来迎というものがあります。その様子は来迎図に描かれ、人々は臨終の来迎を待ち望み、そして浄土往生を夢みてきたのです。ところが親鸞は「臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(『末燈鈔』第1通)と言います。そして続けて「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」と言うのです。「往生さだまる」ということを、来生に往生することが定まるというように生ぬるく解釈するべきではないでしょう、今生ただいま往生が始まると読むべきです。
 ここに親鸞浄土教の真面目があります。
 さらにこんなことばもあります、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)。これは善導のことばを親鸞流にアレンジしているのですが、「南無阿弥陀仏」の声に遇えたひとは、もうその心は浄土にあるということ、もうすでに往生が始まっているということに他なりません。身はまだ穢土にあっても、心はもう浄土にあるのです。曽我量深氏のことばがよみがえってきます、「浄土は西岸にあるが、浄土の門は東岸にあり」と。ぼくらは東岸すなわちこの世の穢土においてすでに浄土の門をくぐり、往生の生活を始めるのです。

タグ:親鸞を読む
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