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「たてさま」と「よこさま」 [「親鸞とともに」その124]

(8)「たてさま」と「よこさま」

親鸞は関東の弟子に宛てて書いた手紙でこう言っています、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり」と(『末燈鈔』第1通)。ここで「来迎」とか「臨終」と言われているのが、往生は未来にありとする立場を指していることは言うまでもありません。そして親鸞はその立場を諸行往生とよび、その立場の人を自力の行者と呼びます。「信心の定まるとき往生また定まる」とするのが、これまで見てきました第十八願成就文の「即得往生」ですが、では諸行往生とはどのような考えでしょう。

それがはっきりと表明されているのが第十九願です。「十方の衆生、菩提心を発(おこ)し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願してわが国に生ぜんと欲(おも)はん。寿終(じゅじゅう)の時に臨んで、たとひ大衆(だいしゅ)と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。まず「菩提心を発し」とは、仏になろうと思う心が起こるということで、これがすべてのスタートとなります。次の「もろもろの功徳を修し」ということばにこの立場の本質があり、さまざまな善きこと(修行)を積み重ねていうことです。そして「心を至し発願してわが国に生ぜんと欲はん」ときますが、これが第十八願成就文の「かの国に生ぜんと願ずれば」に当たります。最後の「寿終の時に臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは」に「臨終」と「来迎」が出てきます。往生は臨終のときであることが確認できます。

これを見ますと、「菩提心を発す」からはじまり、「もろもろの功徳を修す」、「かの国に生ぜんと欲ふ」、「臨終に往生する」が時間順に「たてさま」につづいていますが、これは先の第十八願成就文で、「その名号を聞きて」の「いま」に「信心歓喜せん」、「かの国に生ぜんと願ずる」、「すなはち往生を得」のすべてが「よこさま」に入っていたことと鮮やかなコントラストをなしています。


タグ:親鸞を読む
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