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虚仮諂偽にして真実の心なし [『教行信証』「信巻」を読む(その99)]

(3)虚仮諂偽にして真実の心なし


親鸞もまた「毎日毎夜に実験しつつある所」を語る人ですから、「仏のお心というものは云々」とトクトクと語ることはできません。それが「仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに」という文言となって現われているのです。


親鸞は真っ先に「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」と言います。これは親鸞にとって「毎日毎夜に実験しつつある所」であり、天地がひっくり返っても確かなことです。同じ趣旨のことが『歎異抄』「後序」にはこうあります、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」と。これは親鸞が頭で考えて得た結論といったものではなく、心でヒリヒリと感じていることを吐露しているのですが、ただこのことばには微妙なところがあり、一歩踏み間違えると奈落に落ちてしまいかねないところがあります。


もし誰かが「わたしは嘘つきだ」と言うとしますと、この言明はただちにパラドクスに見舞われます。この言明が正しければ、それを言明している当人が嘘つきですから、この言明もまた嘘であることになるからです。これを「自己言及のパラドクス」と言い、古代ギリシアの時代から注目されてきました。このパラドクスから逃れる道はただ一つ、この言明は当人自身から出たものではなく、どこかから「汝は嘘つきだ」という啓示がやってきたと考えることです。そのときこの啓示は当人にとって申し開きできない真実性を帯びていて、その前にうな垂れながら「わたしは嘘つきだ」とつぶやくしかありません。そう考えることで、この言明はパラドクスから救われます。


「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなし」という言明もまた親鸞自身のことばではないと言わなければなりません。これは彼の口から出たことばには違いありませんが(唯円がそれを聞き、記録してくれました)、彼はどこかからこの啓示を受けていると考えるしかありません。そしてそのとき、この言明はもう否定しようもない真実性をもって親鸞に迫っています。一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし」も同じように、もう天地がひっくり返っても確かな啓示として親鸞を打っています。



タグ:親鸞を読む
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