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阿弥陀如来来化して [親鸞の和讃に親しむ(その33)]

(3)阿弥陀如来来化して(これより現世利益讃)

阿弥陀如来来化(らいけ、釈迦として現れて)して 息災延命のためにとて 『金光明』(『金光明経』)の「寿量品」 ときおきたまへるみのりなり(第96首)

阿弥陀如来があらわれて、現生利益の経として、「金光明」の寿量品、説いてはのちに伝えたり

この和讃から「現世利益和讃」がはじまります。その最初に古来『法華経』、『仁王経』とともに鎮護国家の経典とされた『金光明経』が取り上げられ、その「寿量品」に息災延命が説かれていることが詠われます。息災延命には「七難をとどめ、いのちを延べたまふなり」という左訓がついていますが、これなどは現世利益の代表格と言えるでしょう。さてこのうたを読まれた多くの方は、浄土真宗は現世利益をはっきり否定することで他の宗派とたもとを分かっているのではないかという疑問をもたれるのではないでしょうか。そして、どうして親鸞はここで息災延命などという現世利益を取り上げるのだろうという思いが膨れ上がるのではないでしょうか。

後で読むことになりますが、『正像末和讃』の「悲歎述懐讃」のなかで親鸞はこう詠っています、「かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ 天神・地祇をあがめつつ 卜占(ぼくせん)祭祀つとめとす」と。どうして世の道俗が「良時・吉日えら」び、「天神・地祇をあがめ」て、「卜占祭祀つとめとす」るのかと言えば、言うまでもなく「七難をとどめ、いのちを延べ」ようとするからであり、現世利益を手に入れようとしているからでしょう。そういう世の動き(それは今も変わりません)に対して親鸞が「かなしきかなや」と嘆いていることと、ここで息災延命を説く『金光明経』を取り上げて詠うこととがどうにもうまくつながらないのです。

いったい親鸞は現世利益についてどう考えているのでしょう。まず、各自胸に手を当てて確認をしておきたいと思いますのが、われらはみな現世利益を求めているという事実です。いま猛威を奮っているコロナ禍が早く鎮まり、自分がコロナウイルスに感染しないで済むようみな切に願っているということです。そのことについて自分に嘘をつかないこと、これが親鸞にとっての出発点です。親鸞ほど己の心のありように正直な人はいないでしょう。自分の中には紛れもなく現世利益の願いがある、しかしだからと言って、息災延命のために「天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」ることはきっぱり否定する。そのことを念頭にこの和讃をもう一度味わいますと、はじめて読んだときとは違う風景が見えてきます。

息災延命は、われらがそれを願うより前に、「阿弥陀如来来化して」、「『金光明』の「寿量品」に「ときおきたま」い、願ってくださっているのですから、われらは「何と有り難いこと」と感謝するのみです。これが親鸞の現世利益です。


タグ:親鸞を読む
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