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申し訳ない [親鸞の手紙を読む(その79)]

(8)申し訳ない

 悪は気づきであることを見てきました。「あゝ、オレは悪人だ」という気づきにおいて悪ははじめてその姿をあらわすのですが、この気づきは「申し訳ない」という慙愧をともないます。さてこの「申し訳ない」のは誰に対してでしょう。まずは、自分の悪が直接向けられた相手に対して「申し訳ない」のですが、しかしそれにとどまるものではありません。その相手を越えて何かもっと大きな相手に対して「申し訳ない」と言っているような気がします。
 「こんな悪人で申し訳ない」は、「おまえは何という悪人か」という声に応えているのではないでしょうか。どこからかやってくるこの声に、「あゝ、オレは悪人だ」と気づかされ、そして「こんな悪人で申し訳ない」という慙愧の思いがあふれてくる。法に違反しているかどうかは自分で認識しなければなりませんが、悪に気づくことは自分でできることではありません。自分で気づこうとして気づけるものではなく、むこうから否応なく気づかされるのです。
 このように、己の悪に気づくのは、不思議な声がすることによるのですが、この声こそ弥陀本願の声に他なりません。弥陀本願の声は「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけん」(『歎異抄』第1章)という呼び声ですが、それは同時に「なんという罪悪深重、煩悩熾盛の衆生であることよ」という声でもあります。機の深信(「あゝ、オレは悪人だ」という気づき)と法の深信(「罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけん」という本願の気づき)は一体であるのです。
 「毒すなわち煩悩」と「薬すなわち本願」という巧みなたとえが使われていますが、毒薬ということばがありますように毒と薬は表裏一体です。どんな薬にも副作用という名の毒性がありますし、「毒にも薬にもならん」という言い回しも両者の一体性をあらわしています。アヘンには鎮痛作用があり古くから薬として使われてきましたが、しかし頭痛やめまいなどを引き起こし、中毒性があって最後は廃人同様にしてしまう怖い毒であることもよく知られています。
 煩悩という毒と本願という薬は表裏一体です。

タグ:親鸞を読む
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