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忘却と想起 [『浄土和讃』を読む(その30)]

(20)忘却と想起

 これまで「気づく」ということばを繰り返し使ってきました、光をこうむるとは、これまで気づいていなかったことにふと気づくことだ、というように。ぼくらは智恵が与えられると聞きますと、何か思いもしなかったような新しい認識が授けられるような印象をもちますが、そしてそれが悟りであるかのように思いますが、どうもそうではなさそうです。もうすでにあったのに、それに気づいていなかっただけで、あるときふとそのことに気づく。これが智恵の光をこうむるということではないでしょうか。
 あるいはこう言っても同じです。すでにあったのに、そのことをすっかり忘れていた。あるときそのことをふと思い出す。これが知恵の光に照らされることではないかと。そういえばプラトンは認識とは「想起」だと言っていました。ぼくらはむかし(まだこの世に生まれる前に)真理(イデア)を目の当たりにしていたのに、それをいつしかすっかり忘却してしまっている。それを何かのきっかけでふと想い起こし、「あゝ、これはむかし見たことがあるぞ」と思う。これが真理の認識だと言うのです。
 神話的ではあるものの、気づくということをうまく言い当てているのではないでしょうか。ぼくらは、あることを(自分に不都合なことを)ほんとうはすでに知っているのに、どういうわけかすっかり忘れています。ところがあるときふとそれを思い出す。これが気づきです。フロイトならばプラトンの忘却を「抑圧」と言うでしょう。ほんとうは知っているのに、それをすっかり忘れてしまうのは、見たくないから無意識の奥に押し込んでいるのだと。見ないように必死に忘れているのですから、それを自分から思い起すことはありません。向こうから想い起こさせられるのです。
 「オレは悪人だ」と知っているのですが、それを無意識の領域に押し込むことですっかり忘れ、「オレはほどほどの善人だ」と思っています。しかしそこに不思議な光をこうむり、ふと「あゝ、オレは悪人なのだ」と思いだす。闇に光が当てられることで、闇が光になるのではありません、闇が闇であることが明らかになるのです。

タグ:親鸞を読む
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