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8月1日(日) [矛盾について(その5)]

 言説と現実、なかなか微妙な関係にあります。そして、それに加えて、言説といってもさまざまな種類があり、両者の関係はより複雑さを増してきます。
 これまで言説とは現実をことばに写し取るものだと言ってきました。しかしぼくらが日頃口にしていることばは、現実を写し取っているものばかりではないことにすぐ気づきます。「こんにちは」や「さようなら」という挨拶や、「この荷物持ってくれる」とか「黙れ」など、相手に要請したり命令したりすることば。これらが事実の記述でないことは一目瞭然ですが、一見事実を記述しているようで、実は全く違う働きをしている言説があります。
 「わたしはこの船を“クイーンエリザベス号”と命名する」という文を見てください。この文は事実を記述しているでしょうか。そう見えます。「わたしが命名する」という事実があって、それをこの文が記述しているのだから、これは事実の記述以外のなにものでもないように思えます。ところがイギリスのオースティンという哲学者はそうじゃないと言うのです。「わたしが命名する」ことによって、この船はクイーンエリザベス号となったのだから、この文は事実を記述しているのではなく、実は一つの行為を遂行しているのだと。この文で「わたしが命名する」という事実が記述されているのではなく、命名するという一つの行為が遂行されているのだと言うのです。
 もうひとつ例を上げましょう。「わたしはこの時計を弟に遺産として与える」。これも「わたしが与える」という事実を記述しているように見えますが、この言明によって「わたしが弟に遺産を与える」という事実がはじめて成立したのですから、この文は約束をするという一つの行為を遂行しているのです。ことば自体が行為を遂行するということで、オースティンはこのような文を「遂行文」と名づけ、事実を記述する「陳述文」と区別します。
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