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日常語と仏教語 [『ふりむけば他力』(その7)]

(2)日常語と仏教語

 他力はもともと日常語としてつかわれていたものが、仏教語として採用されたケースですが、逆にもともと仏教語であったのが、いつしか日常語としてつかわれるようになった例は枚挙にいとまがありません。その一二を上げてみますと、たとえば「我慢」。もとは「我が慢心をおこす」ことで煩悩の一つですが、それが日常語となりますと、「辛いことがあってもわがままを言わずじっと耐える」と肯定的な意味になります。あるいは「頑張る」。もともとは「我を張る」という意味でしたが、日常語としては、「大変なことであってもくじけずにやり抜く」という意味となります。このようにもともともっていた意味が日常語となることによって全く異なるものとなり、真逆になったりします。
 さて他力ですが、日常語としては「ひとの力をたのむ」という意味ですから、それが仏教に取り入れられますと、「弥陀の本願力をたのむ」というように理解されるのが自然の成り行きでしょう。世の善男善女が神社仏閣にお参りしては、幸せになれますように、病気が治りますようにとお祈りしているのは、まさに神だのみ、仏だのみをしているわけです。これは他力の元来の意味にぴったりあっていますから、本願他力ということばもそのように理解されるのは無理もありません。しかし浄土の教えにおいて、他力とはわれらがそれをたのみとして幸せを引きよせるようなものではありません。もしそうでしたら、本願他力はわれらがそれをゲットし、その力をわれらのために利用するという構図になりますが、それでは本願他力のもっとも大事なものを台なしにしてしまいます。
 本願他力とは、われらが生きる上でそれを利用するものではなく、われらが生きていることのすべてがすでにその上にあり、われらはそれに生かされているということです。日常語としての自力と他力の違いは、われらが何かをなそうとして、それを「自分の力でなす」か「他人の力を借りてなす」かであり、いずれにしても「わたし」がそれをなそうとしている点では変わりありません。しかし浄土の教えにおいては、「わたし」が何かをなそうとはからうことは、実はみなすでに本願他力によりそのようにはからわれているということになります。

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