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往生の旅 [「『証巻』を読む」その109]

(6)往生の旅

そしてもう一つ、近門は「浄土に至る」ことであるとともに「大乗正定聚に入る」ことであるとされていることを見逃すことはできません。浄土に往生することは、正定聚になることだということです。

これまたしばしば正定聚になることと浄土に往生することは別であると言われますが、両者がここではっきりと等値されています。親鸞が第十八願成就文を注釈して「即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とは申すなり。即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」(『唯信鈔文意』)と述べていますのは、『論註』のこの箇所が決め手になったものと思われます。

信心をえたときに「すなはち」往生するのであり、それは正定聚になることであると明言されています。

ところが、浄土に往生するのは来生のことであるとする思い込みは骨の髄まで染み込んでいるようで、この五功徳門の文を読むときにも、その思い込みから近門と大会衆門は今生で、宅門・屋門・園林遊戯地門は来生のことと解釈されることがあります。すなわち近門と大会衆門は今生において正定聚となることであり、宅門以下は来生に浄土に往生してからのことであると時間・空間を二つに分けるのです。これはしかし如何にも無理な解釈と言わなければなりません。天親・曇鸞にとっても、そしてわが親鸞にとっても五功徳門は一連の流れであり、それを二つに切り離すことはできません。

本願に遇うことができたときに往生の旅ははじまり(これが近門です)、そしてその旅は大会衆門・宅門・屋門とさまざまなプロセスを経て次第に円熟していきますが、それらはみな今生のことです。


タグ:親鸞を読む
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