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真実の信行まことに獲ることかたし [『教行信証』「信巻」を読む(その18)]

(8)真実の信楽まことに獲ることかたし


 先の文につづくところで、難信ということが言われます。


 しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ることかたし。なにをもてのゆゑに、いまし如来の加威力(かいりき)によるがゆゑなり、ひろく大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顚倒(てんどう)せず、この心虚偽(こぎ)ならず。ここをもて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊(諸仏)の重愛を獲るなり。


 最初の一文ですが、これを聖道門的な行き方と対比しますと、その違いの大きさに驚かざるを得ません。聖道門では「信じることは易しく、無上妙果(仏の悟り)に至ることは難しい」となりますが、浄土門では「無上妙果に至ることは易しく、信じることが難しい」と言われるのですから。これにもう少しことばを添えますとこうなります、本願を信じることができれば、かならず無上妙果に至ることができるのだから、無上妙果に至ること自体は何も難しくない、ただ本願を信じることが難しいのだ、と。


ではなぜ本願を信じることは難しいのか。これに対する答えもまた驚くべきものと言わなければなりません、「いまし如来の加威力(かいりき)によるがゆゑなり、ひろく大悲広慧の力によるがゆゑなり」と言うのです。如来の加威力とか大悲広慧の力とは本願力を指していると理解できますが(この二つの違いについて昔からやかましい議論があるようですが、あまり生産的とは思えません)、本願力により信を獲ることができるのであれば、信を獲ることはむしろ易しいのではないかと思うのが自然ではないでしょうか。ところが、だからこそ難しいと言われるのです。これをどう了解すればいいのでしょう。


お気づきのように、この疑問についてはすでに触れています(3)。本願を信じることも本願の力によるとすると、十方の衆生がみなもれなく本願を信じているはずではないか、どうして信じていない人がいるのか、いや、それどころか「真実の信楽まことに獲ること難し」と言われるのはどうしたことかという疑問です。それにはこう言いました、本願は直接われらのもとにやってくることはできず、それは名号(「南無阿弥陀仏」の「こえ」)のかたちを取ってやってくるのであり、その「こえ」を発する「よきひと」が介在しなければならないと。



タグ:親鸞を読む
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